コブラ『過去を無きものになど誰にもできはしない!!!』
コブラ『過去を無きものになど誰にもできはしない!!!』
幸か不幸か、
情け深いのか情け容赦ないのか、
『時間』とは、"一次元"である。
一方向にしか進まないもの。
つまり、過ぎた時間は二度と元には戻らないのである。
『時間が解決してくれる』
こともあるし、
『取り返しのつかない後悔』
をすることもあるし、
そのどちらにも微笑み、嘲笑う時の流れとは、
変えることのできない、この世の運命である。
だから、その運命への態度が重要になってくる。
『くよくよと下を向いて目を逸らす』
か、
『真っ直ぐに前を向いて逃げない』
かである。
人間は愚かなことに、
その覚悟が決まるのは『何か起きてから』ということが多い。
だが、
『何か起きてから』でもいい。
もう二度と後悔したくなかったら、
悔いのない人生がどういう人生か、糧にして更生すればいいのだ。
コブラ『過去を無きものになど誰にもできはしない!!!
………
この戦争の上に立ち!!!
生きてみせよ!!!!』
『更生』という字は、離すと『更に生きる』と書き、
くっつけると『甦る』と書く。
『何かが起きた』。
でも、そこから更に、生きていかなければならないのだ。
人生が"一次元"だということを知ったその日から、
人間は本当の意味で、この世に甦るのかもしれない。
コブラ『過去を無きものになど誰にもできはしない!!!』
ゲンゾウ『我々はこれから 精一杯生きようと思う』
ゲンゾウ『我々はこれから 精一杯生きようと思う』
このテーマについて話をするなら、
私の会社のHPに書いた、挨拶文を書いておく必要がある。
人生は、楽しまなければなりません。
なぜなら人生は、有限だからです。
いずれ消えゆく“儚い運命”ならば、楽しまなければ虚しすぎます。
不治の病に悔やむこともあるでしょう、
不慮の事故に悲しむこともあるでしょう、
不可避の天災に打ち砕かれることもあるでしょう。
しかし、人生とはそういうものです。
順風満帆、息災延命に生きる人々でさえも、
生まれた時から“死”とは常に隣り合わせなのです。
ですが、だからと言ってそれが目を逸らし、くよくよと下を向く理由にはなりません。
むしろ、有限だからこそ、
前を向いてしっかりこの人生を“楽しむ”べきではないでしょうか。
ある国には『現世で苦労した分だけ来世で楽ができる、
報われる』と考え、日々修業に勤しむ人生の概念もあります。
しかし、 やはり人間は、現世だろうが来世だろうが、
人生を楽しむために、生きているのです。
『楽をする』
とは言っていません。『楽をする』のと
『楽しむ』
のとでは意味が全く違います。
もちろん、自分だけでなく、全ての人が楽しい人生を送らなければなりません。
そして当然、現世だけの人間だけではなく、私達の子孫もその対象です。
全ての人が『楽しむ』ためには、“努力”が必要です。
“覚悟”が必要です。
“理性”が必要です。
『試練』、『問題』から目をそらさず乗り越えていく、“勇気”が、
そして“愛”が、必要です。
大切な人間関係や、地球に迷惑をかけて好き勝手なことをして
『楽しい』と思っているのであれば、それは『楽(現実逃避)』をしている。
私達人間は、ここを無視して本当の意味で楽しむことなど、できないのです。
逃げず、誤魔化さず、
人間が生きていく上で起こる様々な『問題』と向き合っていくことが、
人生を楽しむことにつながっているのではないでしょうか。
”儚い”からこそ、“尊い”。
夜空に打ち上げられて華麗に咲き散る大花火は、
一瞬で“儚い”からこそ、”尊い”。
この“儚い人生”を、“尊い生命”だと思えるような、そんな生き方をしなければなりません。
…楽しむ前に亡くなってしまった人?
なぜそう決めつけるのかはわかりませんが、もしそういう人がいたとしても、
彼らは私達に、”命の尊さ”を教えてくれた、恩師です。
彼らの死を無駄にしないためにも、彼らに感謝し、
彼らの分まで前を向いて生きていかなければなりません。
─抜粋
ゲンゾウ『我々はこれから 精一杯生きようと思う
あまりにも多くの犠牲の上に立ってしまった
だからこそ精一杯
バカみたいにな…
笑ってやろうと思うのだ…!!!』
ゲンゾウ『我々はこれから 精一杯生きようと思う』
ブルック『辛くない日などなかった…(中略)でもねルフィさん…私!!!生きててよかったぁ!!!』
ブルック『辛くない日などなかった…(中略)
でもねルフィさん…私!!!生きててよかったぁ!!!』
誰にも理解されず、
あるいは誰にも話すことが出来ず、
孤独というのは、
確かにとても辛い。
だが、だからといって、
それがこの人生に見切りをつけて諦める理由にはならない。
孤独に屈し、
人生を辞めてはならない。
自分の人生を"生きる"希望を見失ってはならない。
自分に正直に、人に優しく生きていればきっと、
良いことがあるから。
ブルック『辛くない日などなかった…
希望なんか正直見えもしなかった
でもねルフィさん…
私!!!
生きててよかったぁ!!!
本当に!!
生きててよかった!!
今日という日が!!!
やって来たから!!!
あ 私
仲間になっていいですか?』
ルフィ『おう いいぞ』
どちらにせよ終わる命なのだ。
くよくよと生きるよりは、
人として孤独でも、花や海、
星や動物や大自然の美しさに魅了されることはできるはずだ。
『人生が終わってしまうことを恐れてはいけません。
人生がいつまでも始まらない事が怖いのです。』
byグレース・ハンセン
孤独を恐れて自分にしか生きれない人生を諦める人間には
成り下がってはならない。
『ファイト!
闘う君のことを
闘わない奴らが笑うだろう!
ファイト!
冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ!』
by中島みゆき ファイト!
ブルック『辛くない日などなかった…(中略)
でもねルフィさん…私!!!生きててよかったぁ!!!』
鷹の目『生き急ぐな……!!若き力よ…!!』
鷹の目『生き急ぐな……!!若き力よ…!!』
『人生に執着する理由がない者ほど、人生にしがみつく』
byエラスムス
潔く生きるのはいい。
だが、生き急いではならない。
『人生はマラソンなんだから、百メートルで一等をもらったってしょうがない。』
by石坂泰三
雪だるま方式、
弾み車効果、
年輪経営、
クリティカルマス、
セレンディピティ、
一万時間の法則、
10年ルール、
ROA、
一次元に進むこの人生の時間軸において、
これだけの内省要素があれば十分見えてくるものがある。
鷹の目『生き急ぐな……!!若き力よ…!!』
こういう言葉がある。
『人生は、私たちが人生とは何かを知る前にもう半分過ぎている。』
byW・E・ヘンリー
潔さ、
それは逆に言えば、"自惚れ"である。
本物の実力を身につけるのは、一朝一夕にはいかないのだ。
鷹の目『生き急ぐな……!!若き力よ…!!』
ゾロ『言い訳したらどなたか助けてくれんのか? 死んだらおれはただそこまでの男……!!』
死んだらおれはただそこまでの男……!!』
私は20〜23歳の頃、
mixi全盛期だったころ、よくこの言葉を使っていた。
『死ぬ気でやってダメだったら、
どっちみち俺はそこまでの人間だったということだ。』
のらりくらりと生きる人生にうんざりし始めていた矢先である。
そのまま"無難な選択肢"を取り、誰かに"責任転嫁"をし、
"拝金主義"に生き、"場当たり的"に生きていくことの延長線上に、
どうしても可能性を見いだせなかったのだ。
非生産的で、非合理的な生き方に、
魅力を感じなくなっていた。
世の中には、目には見えないが確かに存在する、
二つのサイクルがある。
『悪循環』と、『好循環』である。
私が生きていたサイクルは、前述した方だった。
言い訳がましくこの世を生きて、何とする。
自分の身の回りで起きた出来事は、
全て自分の責任である。
それが"主体性"だ。
かのナポレオンの言葉が胸に突き刺さる。
『状況?
なにが状況だ。
俺が状況をつくるのだ。』
自分の人生の舵を握らなきゃ。
そう思い始めたのだ。
ゾロ『災難ってモンはたたみかけるのが世の常だ
言い訳したらどなたか助けてくれんのか?
死んだらおれはただそこまでの男……!!』
人生は一度きり。
慣れ合いはもう十分やった。
これ以上やるのであれば、
それは"堪能"ではなく、"依存"である。
(俺は"依存"するような弱い人間じゃない。)
これは、
自分の両親が信仰に"依存"して生きるのを間近に見た人間にしかわからない。
私はそう叫んだ心の声を見て見ぬふりをしたら、
一生後悔すると思ったのだ。
そう叫ぶ自分の声を無視したら、
もはやそれは自分にしか生きれない人生を、
否定することと同じだと思ったのだ。
(どうせ死ぬなら、
思い切り生きてみよう。
それでダメだったら、
どっちみち俺はそれまでの男だったいうことだ。
やらずにくよくよと後悔するよりは、
やって潔く、この世を去ろう。)
この一度しかない奇跡の人生を、
主体的に生きるべし。
『その船を漕いでゆけ
お前の手で漕いでゆけ
お前が消えて喜ぶ
者にお前のオールを任せるな』
by宙船
ゾロ『言い訳したらどなたか助けてくれんのか?
死んだらおれはただそこまでの男……!!』
ゾロ『もし死んだら殺してやる…』
ゾロ『もし死んだら殺してやる…』
私もよく、臆病な人達から
煙たがれたり、怖がられたりする。
もちろん、尊敬されたり、羨ましがられたり、嫉妬されたりもするが、
いちいちそういう人間の本性を見るのは嫌だから普段は『無』でいることが多かった。
どれだけ『無』かというと、
18歳のときは電車で喧嘩を売られても微動だにせず殴ってくるまで待ち、
(殴ってこなかったが)
結婚式では私の噂を聞いて敬語を使ってきた親せきに気を使い、
『自分はとても気さくで話しやすい』と演じた。
悪友との間では、難しい話をするよりもふざけた方が受け入れられるので、
自分の『本性』は押し殺し、『ピエロ』になった。
それなら、私は怖がられない、煙たがられない。
相手が、喜ぶ、助かる、顔が立つ、メンツが保たれる。
だが、
そうするとそうするで、デメリットがあった。
喧嘩を売ってきた少年は調子に乗って勘違いが助長したし、
親戚の人間は最初に敬語を使って怖がっていたのに、
(なんだ、大したことないな)
と、見誤る方向へ行ってしまい、逆に私を見下し始め、
言われの無い罵倒や揶揄をし始め、自分が以前私に敬語を使ってしまったという
情けない出来事の、採算を合わせることを考えてしまった。
彼らの為にピエロを演じたのに、
悪友たちは、それを私の等身大だと勘違いし、
私がたまに真面目なことを言っても『冗談だ』と決めつけられ、
笑われるようになってしまった。
そして、本来であれば彼らが行う誕生日会、
夏休み、年末年始の旅行等のイベントを率先して企画し、
常に集団を統率していた私の貢献度からいっても、
私の意見に耳を傾けるべきなのに、
ある悪友はこう言った。
『お前、自分が特別な存在だと思ってんじゃねえの?』
彼が私にそんな口をきくのは初めてで、
それまでは顔色をうかがうような人間だったが、
それは私が、彼ら悪友との距離を置き、2年が過ぎた頃だった。
つまり、彼は私にもう『用済み』の烙印を押していたのだ。
だが私はハッキリと覚えている。
池袋のデニーズ、旅行の帰りだ。
5年前、私が皆の為に仕事を頑張って金を溜めて、
月1000万円くらいの利益を出せるようになったら、
皆を海外旅行に連れて行くと言ったら、その人間はこう言ったのだ。
『おう。頼むぜ。そうしてくれよ。』
自分の彼女といちゃつきながらそう言った人間が、
その3年後、私にそう言い捨てたのである。
もう一度言おう。
彼は私に、『用済み』の烙印を押したのだ。
俺が求めているのは『ピエロ』だ。
『ピエロの本性』じゃねえ。
こっちをもてなせないんだったら、俺はお前の言うことは聞かねえ。
…こういうデメリットだ。
これらの経験を持つ私が出した答えはこうである。
『どっちみち人との対立や軋轢は避けられないのであれば、
自らを偽り、同調し、追従し、あるいは中途半端な情けをかけるよりも、
等身大の自分で生き貫き、生まれる"それ"の方が、
腹が決まりやすい。
自分を偽ってはならない。
自分が正しいと思うことをしなくてはならない。
"人の為に"とか、
そういう言い訳をしてはならない。
金?
ダイヤモンド?
それよりもはるかに価値のあるもの、
それが、過去未来永劫、唯一無二の、我々の人生だ。
誤解を恐れるな。
軋轢を恐れるな。
我々はたった一度の人生を生きているのだ。』
『自分が正しいと思うことをすればよろしい。
しても悪く言われ、しなくても悪く言われる。
どちらにせよ批判を免れることはできない。』
byエレノア・ルーズヴェルト
ゾロ『もし死んだら殺してやる…』
4年ほど前から、私はそうやって『他人の為に』という言い訳をするのをやめ、
自分の人生を生き貫く責任を重んじるようになった。
長く連れ添った悪友も当然、
その他の一切の私を『誤解』している人間との距離が空いたのは、
当然、その決意と共に自然発生する現象だった。
そのときに別に、『誤解』していない人間、
つまり『正当な評価』をしている人間がいれば、
別に距離は空かないはずだったが、
空いたのだ。ものの見事に全員と。
彼らは『私』と向き合っていたのではなく、
『私が演じるピエロ』と向き合っていたのだ。
その中でも私を信頼していた後輩が何人か私の会社に入ったが、
一人は私に求めていたものとのギャップについてこれず逃げるように退社し、
もう一人は『今までは社長の10%も理解していなかった』とつぶやいた。
当時、メールで文字を最大にし、
四の五の言わずにやることをやれや
とよく言ったが、退社したような人間はその意味を、こう履き違えたのだろう。
『社長は俺を責めている。
社長は俺を嫌っている。
社長は俺を押しつぶそうとしている。
社長は俺を否定している。
俺なんかいてもいなくても変わらないんだ…』
実に残念だが、
半分当たっている。
私は男のくせに慣れ合ったり、女々しい態度をとったり、
表裏的だったり、背信的だったり、
自分にも他人にも厳しく出来ないような奴は、
"嫌い"だからである。
だが彼は女々しくも、"自分の存在自体を否定された"と思い違いをしたのだろう。
私はそんなこともいちいち説明しなければならないような奴とは、
仕事はできない。
ピエロ時代(常に人を笑わせ、幸せにし、貢献することを主とする)
の私を等身大だと思っていたのであれば大間違いである。
一流で働くビジネスマン、
男だらけの体育会系出身や、
軍隊で訓練する男どもから言わせれば、
そいつのとった行動など、『情けない』の一言である。
『女々しい男』と仕事をするくらいなら、
『女性らしい女性』と仕事をしたほうが1億倍マシである。
『男は、男』なのだ。
男らしく、ガタガタ言い訳せずにやるべきことをやるべきなのだ。
それから4年経った今、
今週号のPRESIDENTにはこう書いてある。
偉くなる男、ダメな男の見極めポイント
私は年収2000万〜5000万円レベルの経営人材を日常的に目利きしている。
彼らのキャリアを振り返ってみると、
30代で勝負の大方はついているように感じる。
(中略)
退路を断ち、リストラ遂行などの厳しい局面を責任ある立場で経験し、
他人の気持ちがわかるリーダーへと成長する人を私は何人も見てきた。
修羅場を乗り越えることで一皮むけるのだ。
体当たりの経験を積んで大化けする人がいる一方、
『伸びない人』は『自分が何に向いているかわからない』と、
いつまでも足踏みしてしまう『キャリア迷子』に陥りがちだ。
経験の場を失うことになりもったいない。
つべこべいわずに目の前の仕事に真剣に取り組むべきだと思うが、
『つべこべタイプ』が意外に多い。
(中略)
OJTに勝る学習は無いのだから、まずは目の前の仕事に打ち込みたいものだ。』
─抜粋
(OJT…on-the-job training。
職場での実務を通じて行う従業員の教育訓練。)
時間を無駄にしてはならない。
"聞きたい意見"ではなく、
"聞くべき意見"に耳を傾け、
人生を邁進するべきである。
ここからが本題である。
小さなことでガタガタ騒ぐような奴と一緒に居ても、
ろくなことにはならないのだ。
そういう奴に自分の人格を"同調"させるくらいなら、
己を貫き、それに"共鳴"できる人間をつくるべし。
波の少ない浅瀬も確かに"海"だ。
だが、神秘で未知なる深海も、サイクロンに轟く荒波もまた、
"海"なのである。
『死んだら殺すぞテメエ』
浅瀬に居る人間がこういう言葉を使うだろうか。
使う度胸がないのだ。
普段から傷をなめ合う彼らには。
『なめ合わなければ死んでしまう』
…とでも思っているのだろう。
だが、それはただの勘違いである。
その証拠に私は、4年前
『僕は現実逃避をして生きていきます』
という信じられない言葉を放った社員と全身全霊で向き合い、
本当にわずかだが、彼の成長を確認することが出来ている。
今でも一人前には程遠いレベルだが、
当時のそれからすれば、確実に成長しているのだ。
それは私が、この世の厳しさを、
口で、手で、足で、OJTで、
死ぬ気、殺す気、
思いっきりぶつかってきたから以外の、なにものでもない。
『死んだら殺してやる』
この言葉の背景にある信頼関係を見抜けないのであれば、
この人生で、三流にもなれないだろう。
ゾロ『もし死んだら殺してやる…』
ゾロ『悪ぃがおれは "神"に祈ったことはねぇ』
ゾロ『悪ぃがおれは "神"に祈ったことはねぇ』
このテーマについて語ると私は躍起になる。
私の親がクリスチャンで、聖書を読み日曜に教会に行くのに、
『私がやっているのは宗教じゃない』
と言い張り(いまだに)、
それを私に"押し付け"、"強要"し、
物ごころつく前に"洗脳"(あえてこの言葉を選んでいる)
し、それを強いたからである。
それに反抗すると"反抗期"と揶揄され、
それを拒絶すると父親に怒鳴られ、力づくで私の意志をひねりつぶしてきた。
私の心は人一倍"違和感"に包まれ、
それによって私は人一倍自我が発達した。
他の従順で当たり障りのない選択肢を取る兄弟は、
『聞き分けのいい子』だと判断され、
何か問題が起こると、必ず"反抗"していた私のせいにされた。
今でも焼き付いている。
15年前、兄から仕掛けてきた喧嘩で、
私が馬乗りにされ、殴られた時の話だ。
その前日にも同じように、思春期の兄が、私に暴力をふるっていた。
植木に頭を押し付け、木が折れるほど掴んで引きずったのだ。
私も兄もとても仲が良く、暴力的ではなかったが、
思春期も重なり、やり場のない怒りの矛先もわからず、
ただ喧嘩になっただけだ。
それはわかっている。
だが、私も(ここで抵抗しなければ埒が明かない)と考え、
馬乗りに殴られながら、下から顔を蹴りあげた。
すると兄の口からは血が出て、
兄は泣いた。
子供のように泣き始め、母親にすがりつき、
その場で部屋に入ってきた母親は、
『泣きわめいて血を流している聞き分けの良い兄』、
『いつも反抗している血を流していない弟の私』を見て、
どう判断したかは言うまでもあるまい。
私は、『どんな理由であろうと暴力をふるう人間は許せない』
と言われ、母親は兄をこれみよがしに私の前で慰め出した。
私はその瞬間、自分の心の形が変わった音を聞いた。
子供ならだれでも依存する最愛の両親が持つ
歪曲した愛情と不当な評価、
頼りがいがあって、最後の味方だと思っていた兄との信頼関係の崩壊、
その後、確かに"真っ白に育てられた"私は、
それらを含めた"黒い物"に触れ、自分自身が黒く染まるのに時間はかからなかった。
その5年以内に父親が肝臓ガンで死んだが、
私はその余命宣告を聞いた直後は、別に驚かなかった。
むしろ、
(散々俺を苦しめてきたんだから、死んで当然だ。)
(せいせいする。これでようやく俺は自由になれる。)
と思ったのだ。
それは、半分居直り、だが、半分"本気"だったことは、
あれから15年以上、波乱万丈な半生を送ってきた今の私でも、
認めざるを得ない事実だ。
私ほど信仰について悩んだ人間はいるのだろうか。
親の存在によって私は、
皆がやっているように『墓参り』もしなければ、
年末年始に『お参り』に行く胸中も複雑だ。
キリストの誕生日である『クリスマス』は、浮かれることができないし、
『正月』をこたつでテレビを見ながら家族で過ごした思い出が無い。
正月は両親が必ず、クリスチャンの集いと呼ばれる長野のキャンプに出掛けるからだ。
それは、今でも続いている。
一生、続くのだ。
つい今朝も母親は、
『クリスマス会を今年も24日に開く』
と言ったが、
私はその『クリスマス会』に安易な気持ちで参加できない。
私や従兄弟のようにクリスチャンでもない人間に、
母親が食事の前に辛気臭く祈りをはじめ、
その場に居る全員に
メタメッセージ(直接は言わないが、裏で重く訴えかけるメッセージ)で、
『家族・親族みんなでクリスチャンになるのが最善なの。
私はそれを理解してくれるまで、何度でも何年でもこうして祈りつづける。
いつでも信仰を持ちなさい。』
と、押し付けてくるからである。
そういう場を毎年『24日、25日』といったメインデーに設定し、
途中、集まりが悪くなる現象が起きていることに
違和感を覚えていた私は、今朝言った。
『なぜ毎年、24、25日という日に設定するのか。
22、23、26、27という選択肢もあるはずだ。』
『だってあとは平日だから』
『他に都合を合わしてられない』
この発言が母親の言葉だ。
だが実際には、10年以上もの間、24,25日に設定している事実があり、
他に都合を合わしてられないのであれば、
そもそも、誰の為の集いなのか、
その言葉によって自分の"エゴ"が露呈してしまっていることに気づいていない。
"家族"だけならまだしも、
"親族"も含めたメンバーをそのメインデーに集めるのは、どうなのか。
"親族"も自分の家族があるわけで、
そっちをおろそかにし、"こっち"に来させようとするのはどういう考えからなのか。
それにただの"家族"でも『キリスト教信者』と、
そうでない人間の溝はどうするのか。
私のようにそうでない人間が『嫌だ』、『やめてくれ』と、
再三再四、20年以上、何度も何度も何度も言い続けているのにも関わらず、
どうせ絶対に、『神様の誕生日』に"辛気臭い祈り"を始める。
敬虔な信者のふりをする割には"エゴ"の塊で、強要をやめられない。
自分のエゴを押しつけなければ気が済まない。
結局は、自分が『主・イエス・キリスト』の誕生日を、
自分の(一方的に)愛する家族・親族と共に祝いたいという、
"エゴ"なのだ。
それについて他の人間がどう思うかなど、
想像できないのだ。
それで自分の心一つ、満たされるからだ。
上の階に住むもう一つの親族とは、
同じ家に住んでいるのに"壁"があり、
亡くなったその祖母が『仏教』だったという事実は、
その"壁"に本当に関わっていなかったというのだろうか。
なぜ私の子供の頃に大勢で食事をした時の思い出には、
いつももう一人の祖母(クリスチャン)しかいないのだろうか。
なぜもう一人の祖母を含めた家族と、
楽しく食事をする思い出がないのだろうか。
『神』。
もし『神』がいるとしたら、
その『神』も大したことは無い。
この程度の"確かな軋轢"や、
宗教同士で"戦争"を引き起こしてしまう時点で、
『神』の持つ力など、たかが知れている。
『試練』というが、
『試練』の度に罪のない女、子供、老人がそれに巻き込まれて命を落とすのなら、
『神』の持つ倫理は、破綻している。
もはや、『神』など、頼るべき存在に値しないのだ。
ここまで見た人は私が絶対的な無神論者であることはわかったはずだが、
その私が言わせてもらう。
『神』は、『在る(或る)』。
だが、
『頼る(依存する)べき存在』ではない。
『神』とは確かにそこに『在る』し、
目には見えないが確実に『或る』。
だが、『有る』わけではない。
だからこの世には、幾多もの異なった宗教や神が、存在するのだ。
『有って』くれれば、目に見えて絶対神が一人、
そういう名前で、性別はどっちで、どういう出で立ちをしているかが理解る。
だが、『無い』のだ。
『居ない』。
『在る』と『有る』は違う。
例えば、写真は『有る』が、
思い出は『在る』だ。
そういうことである。
これはこのテーマについて、
死ぬほど葛藤した人間にしか見いだせない答えだ。
もちろん、私以上に葛藤した人間は実に多くいるはずだが、
それでもそれらの存在は、人間の中でも一握りしかいないだろう。
ゾロ『悪ぃがおれは "神"に祈ったことはねぇ』
私はこれからも『神』には祈らない。
だが、『神』にすがる人間を、決して見下さない。
この世の50億人以上、つまり人間のほとんどが、
何らかの宗教を持っている事実がある以上、
人間と宗教とは、切っても切れないものだからである。
だが、
だからといって"そのデータ"が、
私が何らかの『神』にすがりつく理由にはならない。
世界的に影響力の強いアメリカ国民のほとんどはクリスチャンだ。
だが、そのクリスチャンがイスラム教の預言者ムハンマドを侮辱し、
大規模な暴動が起きたことは記憶に新しい。
人も死んだ。
キリスト教のイスラム教の争いで、である。
さて、こうした事実を目の当たりにして、
何が絶対神なのか、誰が断言できるだろうか。
今朝私は、クリスマス会には参加しないと言い捨てた。
妹が風邪を引き、私がその対処の仕方を教えるため、
『病は気から。風邪は気持ちが重要だ。』
『母親は風邪を引いたら優しすぎるところがある(配慮した言い方)
俺も昔はよく風邪を引いたら、やれ『たまご粥』だの、『プリン』だの言って、
それに甘えていた。
それを母親が、用意してくれるからである。
だが、それで20歳を過ぎ、彼女と半同棲していたとき、
そうして甘えている私に彼女がこう言い放った。
『そんなにすぐ風邪なんか引かないでしょ』
私は恥を知った。
私は、『風邪を引いたら甘やかしてくれる』と思っていたのだ。』
と言い、
その先もこう続けたかった。
彼女のその言葉の裏には、
私に、彼氏らしく、男らしくふるまって欲しいという願いがあった。
私はプライドの塊のような男だ。
私の心理背景に、私が嫌う信仰を押し付ける母親に対する
『マザコン』に近い甘えがあった事実を思い知らされたその時から、
風邪を引いても決して人に甘えることはなくなった。
それまで私は、ことあるごとに風邪薬を飲んだり、
風邪だと決めつけて自分を甘やかすことが多かった。
多い日には、週1で風邪薬を飲んでいた時期もあった私が、
そういう意識を持って人生を生きるようになってから、
思えば私の人生は、右肩上がりになっているかもしれない。
困難に屈したり、"力"に身を任せたりすることはしない。
抗う覚悟を覚えたのだ。
そして私は巨大な権力や、財力や、圧力に屈せず、
甘い罠や、誘惑、病気、冷たい批判、言われの無い誤解、
無知による揶揄、暴言、横領、
実に様々な"力"に抗い、今を生きている。
いわゆる、当時の彼女は『あげまん』だったのだ。
と。
『病は気から』という言葉は、本当だったのだと。
だが、
私の半生にそういう歴史があることを想像せず、
妹(クリスチャン)は私のこの真剣な話に相槌一つ打たず、
その割には私が用意した『風邪薬』や『ビタミンドリンク』にはお礼を言い、
母親は、私の『母は優しすぎる(甘やかしすぎる)』という話を聞き、
自分の人格が否定されたと勘違いし(ある意味否定したが)、
私の話をさえぎって妹に寄り添い、わざと二人だけの世界をつくったその様子が、
かつて『私に見せつけるように兄を慰めた』様子とそっくりで、
話をやめざるを得ない状況を、恣意的につくられてしまった。
『常に風邪を引く体質だった人間(そう育てられた?)』が、
自身の壮絶な葛藤と、奮闘の中で見出だした『風邪をひかない極意』を、
大事な妹に真剣に話す私の意見が闇に葬られ、
『風邪を引いたり、困難に直面したら主・イエス様に祈りなさい。
甘えなさい。委ねなさい。慰められなさい。無理はしてはならない。』
と、ただただ『与えることが愛』だと勘違いした母親の意見が、
『正しい意見』だという空間がつくられてしまったのだ。
心底から真剣に話すのをさえぎられ、
自分たちの宗教を絶対的に優先する。
そんな人間が集う場所に、クリスチャンではない人間が参加したいと思うだろうか?
答えは、Noである。
この問題において最も重要なテーマは、
『風邪をひかない』ことである。
『風邪を引いたら神に祈る』ということではないのだ。
『風邪をひかないこと』その対処法、それが『問題解決』だ。
どうもうちの親はこの『問題解決』について、
闇に葬りすぎて人生を60年近くも生きてきたらしい。
人生におけるあらゆる『問題』から(宗教だとしても)逃げることは、
問題解決にはならない。
つい2週間も経たない前に、
私が指導して解決したある問題を、もう忘れてしまっているのだ。
私が心から笑って家族と食事が出来る日は来るのだろうか。
来ないだろう。
来なくていい。
なぜなら、そういう日とは、祖母と母親と妹のクリスチャンが全員、
クリスチャンをやめたときだからである。
だが、私はクリスチャンをやめることを、強要しない。
私はさんざん強要されたのに、
私は強要をしないのだ。
この意味がわかるだろうか。
彼女らは、自分達が愛する家族に対し、
『理不尽な要求』をしていることに気づいていない。
自分達が、正しいと思っているのだ。
その延長線上は、前述したような異宗教との争いであり、
私のような人間との、対立、軋轢である。
つまり彼女らは、
自分達が何らかの宗教を持つ、それだけで、
この世の誰かと"確かな軋轢"を生んでしまっているという事実に、
気づいていないのだ。
軋轢を覚悟してでの信仰ならまだいい。
だが、それらを見誤って自分達が正しいと思っているのであれば、
それは単なる"エゴ"であり、自分本位である。
その延長線上に、軋轢や争いがあるのだということを、
自覚していないのだ。
つまり彼女らは、
自分の人生が安らかになるのであればそれでよく、
それらを否定、批判する驚異的な存在を敵視し、
争いを避け、平和主義だと敬虔にふるまうくせに、
自分自身が争いの種になっているということを理解していないのだ。
私は自らの家族を『最愛』だと表現するが、
それは言わば、私が家族であり、そうする運命だからである。
だが、
実の本音では、自分達だけが生きるために慰め合う排他的で自分本位な
平和ボケして、敬虔なクリスチャンを装ううちの家族よりも、
お金もないのに発展途上国に行き、その国の子供の為に身を粉にして尽くす人の方が、
よっぽど人として素晴らしいと思っている。
それが事実なのだ。
紛れもない、真実なのだ。
これでわかったはずである。
『神』に依存する人間は、
『弱い』のだということが。
このSTRONGWORDが持つ意味は深い。
男としてこの世に生まれた以上、
この世の幾多の困難に屈さず、
自分自身の実力で生きていく為に重ねる、
努力、努力、努力。
その、『尋常じゃない努力』とパートナーになり、
一生を貫く覚悟を持った人間にしか言えない、
秀逸な言葉。
それが、このSTRONGWORDなのだ。
『神』がいるとかいねぇとか、
そんなことはどうでもいい。
俺は、俺のやるべきことをやり、
最後まで俺らしく生き貫くだけだ。
そういう人としての強さに、私は深く共感する。
『この世で一番強い人間は、
孤独で、たった一人で立つ者なのだ。』
byイプセン
ゾロ『悪ぃがおれは "神"に祈ったことはねぇ』
ローラ『死ぬか生きるか二つに一つよ どう転ぼうと構わないわ!!』
ローラ『死ぬか生きるか二つに一つよ どう転ぼうと構わないわ!!』
人間は、極端な判断が出来る人間の方が、大成する。
自分が何のために生まれて、何のために生きているのか、
死は本当に訪れるのか、
そういう答えを曖昧にして生きている人間は、文字通り"半端"になる。
色で言えば、生きるが『白』、
死ぬが『黒』、
生きているのでも死んでいるのでもない者が『灰色』である。
曖昧な選択肢を取っている人間は、『灰色』なのである。
このことについては、たった1日前に明石家さんまが言っていたこの発言が、
芯を捉えている。
『私の人生のどん底は、離婚とバブルが弾けた時。
負った借金も、中途半端ならいろいろな選択肢があったかもしれないが、
幸か不幸か、自分に課せられた借金が半端な額じゃなかった。
喋るか、死ぬかという二択しかなかったらそりゃ、
喋るのを選択するでしょ。』
人は、"進化の時期"を体験する前に必ず、
"深化の時期"を経験する。
明石家さんまの場合は、深化の時期とは文字通り、
深くまで堕ちた、そのどん底だったのだ。
そして、『灰色』に生き、無限にあると思っていた選択肢から、
究極の二択を選ぶことを余儀なくされた。
『白』か、『黒』である。
創業者だった私の祖父母も3億、
矢沢永吉も5億、加山雄三も20億、
皆、それを乗り越えたときのモチベーションは、
明石家さんまと同じだったのだという。
イチロー然り、
ベッカム然り、
ミケランジェロ然り、
この世で何かを大成している人間は、
常に自分に極端な選択肢を課している。
ローラ『死ぬか生きるか二つに一つよ どう転ぼうと構わないわ!!
私はもう…日陰には帰らない!!!』
私自身、このことについては深く共感を覚える。
無数にあると思った退路や脇道を絶ち、
自分の生きる道を深化の時期を通して内省し、
見出した白い道。
(この道に間違いは無い。)
そう確信できる道を見つけ出せるかどうかが、
人間に与えられている試練である。
ローラ『死ぬか生きるか二つに一つよ どう転ぼうと構わないわ!!』
チョッパー『こいつらは生きてなんかいない!!!命をバカにするな!!!』
チョッパー『こいつらは生きてなんかいない!!!命をバカにするな!!!』
動いてさえいれば生命。
果たしてそうだろうか。
確かに、こういう言葉がある。
『生きることは、呼吸することではない。
行動することだ。』
byルソー
つまり、『行動』することが生きることなら、
動いてさえいれば、生きていることになるのだろうか。
いや、違う。
ここでいう『行動すること』とは、
当然『呼吸』も入っている。
『呼吸』は立派な運動であり、行動だが、
ルソーは、『それだけではダメだ』と言っているのだ。
『呼吸』するだけではだめ。
動いているだけではだめなのだ。
それでは、『人生を生きている』ことにはならない。
人間には、意志がある。
心があり、人格があり、愛がある。
それらすべての"芯"が抜かれた人間は、
まるで骨抜きにされたある種の生命のように、
人間味を感じない。
『人生を生きる』とは、
それらの"芯"によって己を突き動かし、
生き貫こうとする姿勢である。
人生を侮ってはならない。
生命を見下してはならない。
チョッパー『そんなつもりは毛頭ねぇ
おれはもうお前を医者だとも思ってねぇんだ!!!
ここにいるゾンビ達だってそうさ!!
もう死んでるのに動かされてるだけだ!!
こいつらは生きてなんかいない!!!命をバカにするな!!!』
この世には、金や、"力"や、煩悩に支配され自分本位になり、
人間を人間として見れない哀れな人間もいる。
だがその逆で、
花や木、虫や動物、はては物や会社、作品、国、そして思い出にまで、
命を見出す愛に溢れた人間もいる。
どちらが人として"歪曲"しているだろうか。
機械のように、その回答が書いてある説明書などどこにもない。
あるとしたら偏った人間が書いたバイブルぐらいのものだ。
だがどうだろう。
この世に無数にあるそのバイブルを読みあさっていくと、
何か一つ、繋がるものを見いだせる。
"歪曲"しているのはどちらかなのかということが、
見えてくるのだ。
それこそが、"真理"であり、"原則"であり、"神"である。
(私は無神論者)
不思議とこの世は、
それらを芯にして生きている人間が、
大成している。
この世の不思議といえば不思議だが、
納得してしまうほど突き詰められた一つのロジカルが、
この世に確かに、存在するのだ。
命をバカにしても生きていける現実があるし、
バカにしてもしなくても結局人はみな死ぬが、
私はバカにするような人間をこう考えている。
彼らは、この"儚い"人生に屈し、"虚しさ"しか見いだせなかった愚か者である、と。
"尊さ"を、見いだせなかった、敗者である、と。
チョッパー『こいつらは生きてなんかいない!!!命をバカにするな!!!』